お台場の由来は「大砲の台場」だった|幕末の江戸湾防備がつくった土地
東京湾に浮かぶ、お台場。観光やデート、ショッピングの街として知られていますが、その名前が「大砲の台場(砲台)」に由来することは、意外と知られていません。
しかも、お台場はもともと海。幕末に人の手で築かれた人工島から始まった土地です。この記事では、お台場という名前と土地の成り立ちを、記録からたどります。
※この記事は土地の歴史を紹介するもので、事件・事故などの心理的瑕疵は扱いません。
きっかけは、ペリー来航
物語の始まりは、1853年(嘉永6年)。アメリカのペリーが黒船を率いて来航し、江戸幕府に開国を迫りました。これに衝撃を受けた幕府は、江戸の海の守りを固める必要に迫られます(出典: 東京都港湾局、Wikipedia)。
そこで進められたのが、江戸湾に砲台を築く計画でした。
「御台場」を築いた江川英龍
この砲台づくりを任されたのが、伊豆韮山の代官で、西洋砲術に通じた江川太郎左衛門英龍(坦庵)です。江川は、御台場を築く場所の選定や大砲の鋳造などを担いました(出典: 東京都港湾局)。
計画は、品川沖の海上に11基の台場を築くという大がかりなもの。工事は1853年8月末に着手され、昼夜を問わず進められました。多いときには数千人の人夫が動員され、総経費は75万両という膨大なものだったと記録されています(出典: 東京都港湾局)。
こうして海の上に、人工の島(台場)が次々と姿を現しました。幕府の台場に敬称を付けて「御台場(おだいば)」と呼んだことが、現在の地名「お台場」の由来です(出典: 東京都港湾局)。
「どこを通っても狙われる」配置
品川台場は、ただ砲台を一列に並べたものではありませんでした。正面から迎え撃つ台場、湾内を通る敵を横から撃つ台場、通り過ぎた敵を追い撃つ台場——これらを組み合わせ、江戸湾を進む船に「どこを通っても狙われる」という圧力を与える配置が意識されていたとされます(出典: 名古屋刀剣博物館ほか)。
結果として、砲台が実戦で使われることはありませんでした。しかし、この人工島は明治以降も残り、埋め立てや再開発を経て、今日のお台場へとつながっていきます。
今も残る台場
現在も、第三台場は台場公園として、第六台場は立ち入りできない史跡として、東京湾に残っています。レインボーブリッジのたもとから眺めると、緑に覆われた四角い島影を確認できます。ビル群のあいだに、160年以上前の江戸の防衛の跡が、静かに浮かんでいるのです。
「海だった土地」を、地図でたどる
お台場のように、今は陸地でも「昔は海だった」土地は、東京湾岸をはじめ各地にあります。埋め立ての歴史は、その土地の成り立ちそのものです。
「じもとカルテ」は、住所を入れるだけで、明治期からの古地図と、公的機関が公開する地形・地盤・災害リスクの情報を、根拠の地図とあわせて1枚にまとめてご覧いただけます。あなたの土地は、昔どんな姿だったでしょうか。