大阪城の隣は「東洋一の兵器工場」だった|大阪砲兵工廠の跡地
大阪城公園、大阪ビジネスパーク(OBP)、大阪城ホール——大阪を代表するこの一帯に、かつてアジア最大級の兵器工場があったことは、意外と知られていません。「大阪砲兵工廠(おおさかほうへいこうしょう)」です。
この記事では、その規模と歴史、そして跡地が今どうなっているかを、記録からたどります。
※この記事は土地の歴史を紹介するものです。戦争に関わる事柄は、事実に即して淡々と扱い、評価や論評には立ち入りません。事件・事故などの心理的瑕疵も扱いません。
大阪城のそばにあった、巨大な工場
大阪砲兵工廠は、1870年(明治3年)に設置されました。兵部大輔・大村益次郎の建言によるもので、陸軍で唯一、大口径の火砲を製造する拠点として、火砲・戦車・弾薬などを開発・製造していました(出典: 大阪市、Wikipedia)。
その規模は圧倒的でした。敗戦直前には、土地約596万平方メートル、建物約70万平方メートル。1945年8月ごろの最大工員数は、約6万4000人にのぼったと記録されています(出典: 大阪市)。「東洋一」「アジア最大級」と呼ばれた、巨大な軍需工場だったのです。
大阪城の敷地を、少しずつ広げていった
当初の敷地は、大坂城三の丸の米蔵跡地(現在の大阪城ホールや太陽の広場のあたり)だけでした。それが時代とともに拡張されていきます(出典: 大阪市)。
- 1912年(明治45年)までに、玉造口・京橋口の下屋敷跡地(現在の記念樹の森や大阪ビジネスパーク)へ。
- 1940年(昭和15年)には、城東練兵場(現在の森ノ宮一帯)へ。
こうして工廠は、大阪城を取り囲むように広がっていきました。大阪城が「軍の中枢」に隣接していた——それが、当時のこの土地の姿でした。
一夜にして
終戦の日の前日、1945年8月14日の午後、大阪砲兵工廠は約150機のB-29による集中爆撃を受けました。この爆撃で、工廠は施設の80%以上を失い、その機能を停止しました(出典: 大阪市、Wikipedia)。巨大な工場が、わずかな時間で失われたのです。
跡地は、今
戦後、広大な跡地は再開発され、現在の姿になりました。大阪城公園、大阪ビジネスパーク、大阪城ホール——今、人々が集い、憩い、働くこの場所が、かつての工廠の敷地です。
一方で、化学分析場などのわずかな建物が、今も残されています。にぎわいのすぐそばに、この土地の記憶が静かに積み重なっているのです。大きな公共施設や再開発の下には、しばしば、こうした大きな敷地の歴史が眠っています。
「大きな跡地」を、地図でたどる
大阪砲兵工廠のように、広い敷地を持つ施設の跡は、再開発で公園や大規模施設に生まれ変わることがよくあります。街のなかで不自然に大きな区画は、その手がかりかもしれません。
「じもとカルテ」は、住所を入れるだけで、明治期からの古地図と、公的機関が公開する地形・地盤・災害リスクの情報を、根拠の地図とあわせて1枚にまとめてご覧いただけます。あなたの街の「昔」を、地図で見てみませんか。